スポッツルヴァニアの戦い: 粉々になった木の切り株が物語る
戦いの凄まじい激しさ
スポッツルヴァニアの戦いは、南北戦争で最も血なまぐさく、激しかった戦いの1つでした。1864年5月に数日間繰り広げられたこの戦いでは、北軍と南軍がバージニアの支配権をめぐって必死の争いを繰り広げました。
北軍のユリシーズ・S・グラント将軍は、ポトマック軍に多大な犠牲者が出たとしても、南軍ロバート・E・リーの北バージニア軍を壊滅させる決意でした。しかし、リーはグラントより一枚上手で、グラントが近づく前にスポッツルヴァニア郡庁所在地に到着し、4マイルの強化土塁を築く時間を軍隊に与えました。
ミュールシュー突出部
リーの防衛ラインには、「ミュールシュー」として知られる、逆U字型に外側に曲がった1マイルの突出部が含まれていました。ミュールシューの前方には、この戦いの激しさを象徴する大きな樫の木が立っていました。
北軍の攻撃
5月12日、北軍は夜明けに南軍の防御線を襲撃し、ミュールシューになだれ込みました。リーは援軍を送り、両軍は激しく戦いました。それは、この戦争で最も長く、近接して行われた中断のない戦いでした。豪雨の中、1日中、そして夜遅くまで激しく続きました。
ブラッディ・アングル
北軍の攻撃は、20時間にわたる爆発的な混乱の末に失敗し、その結果樫の木は粉々に砕け散った切り株になりました。切り株の周りの地域は、そこで行われた虐殺の証として、ブラッディ・アングルとして知られるようになりました。
グラントの副官であるホレス・ポーター中佐はブラッディ・アングルを訪れ、その光景を次のように描写しています。「急速に腐敗する死体の山の下には、まだ生きている負傷者が、恐ろしい埋葬地から抜け出そうと、四肢を痙攣させ、体をよじっているのが見えました。可能な限りの救済が提供されましたが、多くの場合手遅れでした。」
余波
スポッツルヴァニアの戦いは膠着状態に陥り、どちらの側も決定的な勝利を収めることができませんでした。しかし、この戦いは両軍に大きな影響を与えました。北軍は多くの死傷者を出しましたが、グラントのリーの軍隊をどんな代償を払っても打ち負かすという戦略は、次第に批判されるようになりました。
リーの軍隊もこの戦いによって弱体化し、リッチモンドに撤退せざるを得なくなりました。スポッツルヴァニアの戦いは、南北戦争の転換点となり、どちらの側も迅速かつ容易に勝利することはできないことが明らかになりました。
粉々になった木の切り株
ブラッディ・アングルの真ん中にあった粉々になった木の切り株は、南北戦争の恐怖を象徴する強力なシンボルになりました。それは、運命の日に起こった暴力と流血に対する無言の証でした。
今日、切り株はスミソニアン国立アメリカ歴史博物館で保存されています。それは、南北戦争で両軍が払った犠牲を思い起こさせ、戦争の危険に対する警告となっています。